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境内案内図本堂神峯山寺と毘沙門天(1)

神峯山寺と毘沙門天

「日本最初毘沙門天、神峯山寺」。

幕末から明治にかけての皇族、伏見宮邦家親王、有栖川宮熾仁(たるひと)親王らは、神峯山寺に直筆の掛軸写真表示を残しています。日本における毘沙門天の出現は諸説存在しますが、1300年余りに渡る神峯山の歴史は、紛れもなく毘沙門天と共に刻まれたものでした。時代を超え、身分を超え、信仰を超え。人々が奉った神峯山寺の毘沙門天とは、一体どのような存在だったか。その片鱗をここで紹介します。
(参考:神峯山寺秘密縁起)写真表示

戦国武将に愛された「戦い・勝利の神」

日本では四天王の一尊としても奉られる武神・毘沙門天写真表示は、その雄々しい姿から「戦いの神」「勝利の神」として広く知られています。戦国武将・上杉謙信が自らを毘沙門天の転生であると信じ、奉ったのは有名な話。この神峯山の地にも、南北朝時代に河内武将・楠木正成写真表示が、室町時代に将軍・足利義満が帰依した謂れが残っており、中でも大和国の戦国大名・松永久秀は神峯山寺の毘沙門天を手厚く信仰したとされています。

七福神として豪商に愛された江戸時代

乱世から太平の世に時が移ると、武家による信仰が厚かった神峯山の毘沙門天は、「商売繁盛の神」として商人からも奉られるようになりました。これは、幸福をもたらす「七福神」の一人に、毘沙門天が名を連ねていたことも深く関係しています。神峯山寺の南方約10kmを流れる淀川は当時、交通の要所として数多くの商人達が往来しており、中流にあたる「三島江」には現在も豪商・鴻池善右衛門(ぜんえもん)が立てた参詣道標石が残っています。

また、境内には鴻池善右衛門(ぜんえもん)が神峯山に足しげく通った記録が残っており、以降、神峯山寺の毘沙門天は関西で活躍するあまたの企業家・政治家に愛される神として今日も本堂に鎮座しています。また、冒頭で触れた掛軸しかり、近代では伏見宮家、有栖川宮家をはじめとする天皇直系の皇族との関係を示した書物写真表示残されています。

毘沙門天と皇族との深いつながり

こうした皇族と神峯山寺の毘沙門天との繋がりを紐解くには、奈良時代後期へと再び時を遡らなければなりません。桓武天皇の実父であり先代・光仁天皇は774年(宝亀5年)、同じく息子の開成皇子写真表示に神峯山寺の中興を命じました。これは当時、既に毘沙門天を修験道写真表示(山岳信仰)の本尊としていた神峯山一帯を、仏教思想で統一する目的があったのではないかとされています。

詳しくは、十三重塔 「神峯山寺と皇族の所縁」 をお訪ね下さい。

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