遠く大和の国・葛城山中で修行をしていた役小角は、遥か北方のおぼろげに見える稜線付近から一点の光を見つけ、その地に向かいます。そして辿り着いた九頭龍滝で、水神・金毘羅童子
に出会ったのでした。神峯山の地に水の神がいた由縁は諸説存在しますが、当時の畿内の地形は摂津近辺まで瀬戸内海の入り江が存在し、今日よりもさらに海が神峯山に迫っていたことが理由の一つとも言われています。
もとい、その金比羅童子は役小角に対し、この地に伽藍を建立するよう告げました。その際に使った霊木から、童子は四体の毘沙門天像を刻んだとされています。そして、それらのうち一体は神峯山寺に留まり、第二は北東に位置する京都・鞍馬山へ、第三は南方に位置する奈良・信貴山へ、第四は神峯山の北峯へと飛び去ったと伝えられているのです。さらに、四つの毘沙門天の軌跡を辿れば、この伝説の興味深い点が現れてきます。
まず、神峯山寺は現在も本堂にが鎮座しており、その奥の院と称される北峯の本山寺もまた、毘沙門天が奉られています。さらに北東に向かえば、鞍馬には毘沙門天
を奉る鞍馬寺があり、南方・信貴山には「毘沙門さん」として今も人々に親しまれる朝護孫子寺が存在するのです。文献によれば、信貴山は開祖・聖徳太子が天空に毘沙門天を見たことから日本最初の毘沙門天出現地とされていますが、四体の毘沙門天の発生は同時だったのではないかという推察を立てることが出来ます――。
とまれ、神峯山に残る山岳信仰と毘沙門天とは深い繋がりがあり、役小角による修験道の世界においても毘沙門天は信仰の対象として厚く奉られていたようです。事実、今日においても神峯山寺や麓の村では修験者にまつわる行事
が行われており、この地における山岳信仰がいかに所縁があったかをうかがい知ることができるのです。









